その6 復興 3代目天守閣
市民の建てた天守閣とは何を意味するのか?

大阪人が「大阪城」と呼ぶときは、「天守閣」を指す場合が多い。
「天守閣」は城のシンボルというだけでなく、その町そのもののシンボルとして親しまれている。
しかし、大阪城には、266年間も天守閣がなかったのである。

大阪城の歴史

  • 1583年  豊臣秀吉が大坂築城に着手。
  • 1585年  初代天守閣竣工。
  • 1599年  完 成。
  • 1615年  大坂夏の陣により焼失。
  • 1620年  徳川秀忠が大坂城の再建に着手。
  • 1626年  2代目天守閣竣工。
  • 1629年  完 成。
  • 1665年  落雷により天守閣焼失。(以後昭和まで、天守閣は再建されず)
  • 1868年  明治維新の戦火で、大半の建物焼失。
  • 1925年  「大大阪記念博覧会」の会場の一つとして天守台上に仮設された豊公館が好評。
  • 1928年  関一市長が市民直接参加による天守閣復興を提案し全会一致で可決。
  • 1931年  3代目天守閣 完 成。
  • 1997年  平成の大改修。

明治維新の城中大火の前に、既に天守閣はなかった

昭和5年天守閣再建工事
天守閣が失われたのは、なんと1665年、落雷により焼失。2代目天守閣完成からわずか32年の寿命であった。 それ以来昭和まで、江戸時代を通じて266年再建されなかった。

今日では大阪城を含め、復興天守閣は全国に30以上もある。 そしてなんと、その一号は大阪城!なのである。
昭和6年、大阪市民の手で市民のための天守閣が復興した。

独創的な昭和史のモニュメント3代目天守閣

復興第一号となった大阪城天守閣には、今日から見ても注目に値する独創性がうかがわれる。
  1. 天守閣再建という発想そのもの
    明治維新で幕藩体制が崩壊。権力の拠点でありシンボルであった城郭は、無用の長物であった。
  2. 当時最新の鉄骨鉄筋コンクリート造り
    永久的なモニュメントということから、防火・耐震性を考慮。
    大阪城に続く、郡上八幡城(S8)、伊賀上野城(S10)は、木造で復興された。
    鉄筋コンクリート造りは、戦後、昭和29年の富山城。大阪城完成から23年後のこと。

  3. 内部を歴史資料展示施設として整備
    どこにも前例のない大阪人の着想である。 大阪城に続くすべての復興天守閣は、例外なく大阪城方式を採用している。
  4. 大阪市民の手により復興が実現

市民の手による天守閣復興が提案された・・・

昭和5年天守閣再建工事
着想のルーツは、大正14年、毎日新聞社主催「大大阪記念博覧会」で「豊会館」を仮設し、秀吉関係資料を展示。大好評を得たことに発する。
昭和3年2月、関一(せきはじめ)市長から「大天守閣を市民の手で復興させたい」との提案があり、全会一致で可決された。

金融恐慌(昭和2年)、世界大恐慌(昭和4年)の打撃による深刻な経済恐慌から、昭和6年9月の「満州事変」の勃発へと続いた暗くて重苦しい世相の中、天守閣復興は明るく夢のある事業であった。


解明!?

「市民が建てた」とうたわれた復興。
それはどういう意味なのであろうか?


推測1
建設資金の見積もりを出し、市民への募金を募集した。
その結果、前例のない申し込みが殺到し、募金のみで復興工事を行った。
推測2
経済恐慌の打撃の後、夢のある事業とはいえ、一般市民には経済的協力は難しかった。
大阪の建設会社を中心にボランティアを募り、市民の手により復興作業を行った。
推測3
大阪市民のシンボルとして、大阪市民に夢を持たせた。
昭和初期の暗くて重苦しい世相の中、大阪が歴史上もっとも重要な位置を占め、繁栄を誇った時代を再現させようと、市民が提案した。

続く


好っきゃねん大阪  解明!?大阪城の七不思議